※旧ブログからの転載です。

食事作りに置き換えてみる。

家事は、食事だけでなく掃除や洗濯、その他たくさんある。それに、人生は仕事だけじゃない。プライベートな時間だって大切にしたいものだ。そしてまた子供達もいろいろな時間を持っている。

親としてはどれも一生懸命にこなす。ここ数日のツイートバトルで専業主婦は大変じゃないうんちゃらかんちゃらの壮絶さをみても、主婦の仕事をなめてはいけない。というか、私もほぼ主婦みたいなものなので大変さはよくわかる。なかでも食事は家族のためにおいしいものを一生懸命作りたいし、喜んでほしいと常に思っている。

ところが、家族から「もっと食事の種類を増やしてくれ」「他にレパートリーはないのか」「たくさん作れば作るだけ料理の味は上達するはずだ」「とにかく作って作って作りまくれー」「クラスの○○さんの家じゃこんな料理がでるんだって!」などという声があがってきたらどう感じるだろうか? 私はかなりムカつく。

■実際は、作ってはみたものの量が多くて逆に食べきれない。

→「宿題をチェックしない」のと同じ

■ちょっとでも味がおかしかったらまずいという。

→「ミスや間違いの指摘」と同じ

■時間がかかれば腹減ったから早く作れとせかされる。

→「もっと早く解け」と言うのと同じ

■もっと効率的にできるはずだ、その作り方は違うからこう作れと指示される。

→「そんな解き方じゃダメだ、こうやってああやってこうやれば簡単じゃないか」という口出しと同じ

■他の家じゃこういう料理が出てるから作ってとかる~く言われる。

→「○○さんは△△校を受けるんだって。あなたも頑張ってみれば」と同じ

■○○君のお母さんはすごい料理が上手なんだってー。それにくらべてウチは…と愚痴られる。

→「○○君の成績すごいわね。それにくらべてあんたの成績ときたら…」と同じ

などと言われたらどう感じるだろうか?しかも、それが毎日毎日続くのである。とくに最後の2つ、他と比べられるのは最悪だ。家を出て行きたくなる。ちょっとした殺意を感じてもおかしくない。K奈子さんだったら泣く。私なら小突く。

それでは、家族からのこの要求(とにかく料理の数を出せー)に応え続けなければならないとき、しかもすべて手作りするのは時間的にも精神的にも技術的にも不可能なとき、どうすればこの攻撃から逃れられるか、簡単で手っ取り早い方法があるのは皆さんももうおわかりだろう。

実に簡単。そう、インスタント食品や出来合いのものを並べればいい。ただし、手作り至上主義の家族には手作りと思わせなくてはいけないので、隠れて調達するように必死で努力していただきたい。家族はそれを知らないから「うまい、うまい」と食べる。間違いなく「料理の腕も上がったねー、よかった、よかった」「やればできるじゃん、よかったね」と声を上げるだろう。

いや、多くの場合は「こんなにすぐにうまくできるはずがない。時間も限られているはずなのに。何かがおかしい」となるに違いないのだが。

ちっともよくない。まあ多少のごまかしは誰でもするからすべてNGとはいわないが、問題はここで「いつまでもこのままじゃマズイ」と思って修正できる人と、「なんだ(みんなをごまかすなんて)意外と簡単じゃん」と思い、自分で作る努力よりも隠れて調達する方により一層の力を注ぐ人に分かれるということだ。そして、子供にはまだそんな修正能力はないので、当然のことながら楽なほう楽なほうへと流れていくのは必然である。

なお、勘違いしてもらっては困るが、手作りがベストでテイクアウトやインスタントが悪くてズルだといってるのではない。それらをまるで自分の手柄のようにするというのはどうなのか、ということを彼らの学習につなげている。 努力をするところが間違っている一例として挙げている。

つまり、大量の宿題、もっといえば無理やりやらせる家庭学習全般もこれと同じことだ。

子供たちにこういう思いをさせたいのだろうか?子供たちにズルをし続けることに慣れさせたいのだろうか?たとえ一品でも、家族のためを思い、じっくりと時間をかけたお料理は最高だ。ちょっとくらい味がぶれても、それもまた愛情。いつかきっと、最高の料理となる日が必ず来る。

その日がくるまで待っていてほしいと、私なら思う。いつか家族も自分も本当の笑顔に包まれた日を信じて。

無理矢理に、しかも通常の力量と時間を超えた量をやるってことは、ごまかしの人生を歩み続けることなのだ。

子供達には正々堂々とお天道様の下を歩いていってほしい。

――――次回でシリーズ最終回です。