はっきり言って普段の私達は相当にいい加減です。まああまり自慢はできません。

ですが、授業中はしっかりと君達と向き合い、我が子と同じ年頃の君達にもできる限り丁寧な言葉を使い、基本的には授業中の解説は敬語で行います。名前を呼ぶ時も、ときにはくだけた呼び方をすることもありますが、基本的にはさん付けくん付けで呼びますし、人として対等な付き合いを心がけています。

また、授業が始まる前には教室をくまなく清掃し、学校のように生徒に掃除をさせることはしません。私達自身なりにこれからここで学ぶ環境に敬意を表しているつもりです。

 

なぜでしょうか?

 

そんなものは当然で、ここが塾である以上、君達生徒保護者の方から授業料をいただくことで生業が成立しているから、ある意味お客様を迎えるため当然のことではないか、と思われる方もいるでしょう。

ですが、違います。

 

一方で、授業中ダラけていたり、姿勢が悪かったりすればしっかりと注意しますし、ときには退塾勧告をすることもあります。結果が出ていればどのような姿勢で学んでいてもいいじゃないか、という考えを持つ指導者もなかにはいるでしょうが、私達は持っていません。

学ぶということに対して、真剣に向き合わない子はこの塾にいてもらっては困るのです。

 

なぜでしょうか?

それは、学ぶ場にはいろんな神様たちがたくさんいるからです。

ここは神聖な場所なのです。

どういうことか、少し長くなりますがとても大切なことなのでしっかりと最後まで読んでくださいね。読まない人は塾生として認めません。

 

ふだん私達は「先生」と呼ばれていますが、これはただ単に「先に生まれてきた」だけであり、教科書に出てくる定理や法則、解法などを見つけ出したわけでもなんでもありません。

偉大なる先人たちが、その人生と命をかけて発見し、あるいは生み出したものなのです。

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アルキメデスという人物の名前は聞いたことぐらいあるでしょう。

古代ギリシャにおける最大の科学者の一人です。「アルキメデスの原理」といわれる浮力の解明、さらには「てこの原理」など後世に大きな影響を残した人物です。小・中学生のみんなにとって一番馴染みがあるのは「円周率は3.14」という、計算機のない時代にそれを見つけ出した人です。

紀元前212年、第二次ポエニ戦争時、彼が生み出した科学兵器がローマ軍を苦しめました。ローマの将軍マルケルスは彼の才能を高く評価し、逆にローマのためにその頭脳をつかおうと多額の賞金をかけて捕縛するように命じました。兵士たちはアルキメデスを大捜索します。

そんな時、ある兵士がみずぼらしい老人を見つけます。その老人は地面に何か図形を描いていました。兵士は「おい、ジジイ。ここらへんにアルキメデスというメチャすげぇ人がいるらしいが、ジイさん知ってるか?」と語りかけますがその老人は無視して熱心に図形を描き続けます。無視された兵士はキレて図形を踏みつけます。するとその老人は立ち上がり「私の図形を荒らすなっ!」と兵士にくってかかります。兵士はさらに逆ギレし、その老人を刺し殺します。

その老人が実はアルキメデスだったのです。

偉大なる科学者は最後の最後まで図形を描くのをやめず、学問を追究し続けました。

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超絶数学者ガロアを知っている人はなかなか通です。

「ガロア理論」を残した天才でしたが、その理論があまりに飛躍しすぎていて当時は理解されませんでした。彼の名前が後世に響き渡るのはその死後です。

受験しても論文が誰にもわからず不合格の連続、不遇を極めます。父親の自殺など悶々した生活をしていた中、フランス7月革命が起こります。19歳だった彼は今までの不満をぶつけるように闘士へと変貌していきます。が、二度の逮捕。そしてその二度目の釈放の後、恋人をめぐる決闘を申し込まれ、そこで腹部を撃たれ短い人生が終わります。

その決闘の日の朝、「ぼくには時間がない」とノートの余白に走り書きながら書き上げた論文が、その後の数学を変えます。これが「ガロア理論」でした。

死ぬ直前、駆け付けた弟に「泣くな。20歳で死ぬのは相当に勇気がいることなのだから」と言い残したと言われています。

彼が理解されたのは、死後40年たってから。彼もまた死の直前まで学問を追い求めていました。

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スマホ等のIT機器を駆使するのであれば、イギリス人ジョージ・ブールを知っておいてください。

商人の子として生まれた彼は「独学の人」であり、数学者とともに教育者としても知られています。少年期から独学で数学と語学を学び、16歳で小学校の助教師となります。そして、なんと19歳の若さで自分の学校を設立するに至ります。高等教育を受けられなかった経験から多くの若者に学問の場を提供したいという思いだったのでしょう。

その後は寄宿学校も設立、自身も数学の教授になり、ダブリン大学やオックスフォード大学名誉学位を取得、王立協会特別研究員にもなります。そんな彼は49歳の若さで亡くなるのですが、その最期は教育者そのものでした。土砂降りの中を学校まで歩き、濡れたままの姿で講義を行い、そのまま帰宅。肺炎を発症して死亡したのです。

彼が遺したブール代数では10進数ではなく2進数を用いることが大きなカギ。「0」「1」の2つの変数を用いる手法がコンピュータの論理回路の設計に使われていることはあまりに有名です。

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日本人も紹介しましょう。俳句史に革命を起こした正岡子規です。

俳句をはじめ、短歌小説評論など多方面で創作活動を行なった、明治を代表する文学者です。有名(ゆうめい)な夏目漱石などと同じ時代の人です。日露戦争が勃発する少し前にその生涯を閉じました。

若くして肺結核を患い、さらには脊椎カリエスに冒され、最後の7年間は歩くことができず、ほとんど寝たきりでした。臀部や背中に穴が開き、膿が流れ、激痛が五体を貫きます。痛みに号泣し、母や妹に当たりちらし、モルヒネの助けでようやく眠る日々でした。余りの辛さに自殺も考えますが、ある時ふと気づきます。「余はいままで禅宗の悟りというものを誤解していた。悟りとは、いかなる場合にも平気で死ぬることかと思っていたのは誤りで、いかなる場合にも平気で生きていることであった」と。

病と闘い、文学の革新のために戦いながら、明治35年9月19日、子規は凄絶な生活を終えました。享年36。その間に残した俳句の数は約18000句、和歌は約24000首にのぼります。

ちなみに子規とは「ホトトギス」のことで、自らの肺結核と短い人生を悟って中国故事である「啼(な)いて血を吐く時鳥(ほととぎす)」にならってその名にしたと伝えられています。

死の直前まで後世のために俳句、和歌、文学と戦い続けた偉大なる明治人でした。

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さて、ここまで長々と偉大なる先人たちの最期を語ってきたのは、君達に知っておいてほしいこと分かってほしいことがあるからです。

君達がペラペラと簡単にめくる教科書や参考書には、人類の長い長い歴史の中ではぐくまれてきた知の結晶があるのです。そして、それによって私達は平和な日々の生活を営むことができる。

私達「先生」と呼ばれる人は、その先人たちの代わりに君達にそれを伝えているにすぎません。いわば、私達は「知の霊媒師」なのです。

※霊媒師…死者と交流を持つことができるとされ、霊を呼び出し、死者の代わりに語る人。

 

私達の口を通して偉人達の素晴らしい功績を、未来を作る君達に語りかけているのです。

そして、その場が「教室」なのです。その教室に存在する偉大なる先人たち、いろいろな神様たちには敬意を表さなければいけません。ですから、ここは神聖なる場所なのです。

背筋を伸ばし、視線を前に向け、常に謙虚で、正しい姿勢で勉強に向き合わなければいけません。

彼らは死の直前まで学問を追究し、その多くは彼らの死後ようやく輝きを得ます。その魂に対して、適当な姿をさらすことは決して許されることではないのです。

さあ、明日から、いや今この場から、今までの甘ったれた考えとたるんだ姿勢を放り投げ、人として学ぶ姿勢を身に付けなさい。

私達もともに歩みます。